こころをおれぬやいばにかえよ

Update

20211218
今夜は誰にも愛されたかった(メローネ)
静かな雪を君は見せない(メローネ)

20211122
Vain dogs in rain drop (メローネ)
A Wizarding Afternoon Tea(pkmn)
La Belle au bois dormant (pkmn)

20211023
unromantic love syndicate(メローネ)+3
・スロウカーヴは打てない
・Unaqua culture / p.m.
・花泥棒

20211001
unromantic love syndicate(メローネ)+4
・Unreal Blue
・Unaqua culture
・魔法が解ける、それまで
・それが其の猫の手段・√B

20210920
unromantic love syndicate(メローネ)
惑亂(蘆屋道満)

La Belle au bois dormant.

挑戦者との試合を終え、ビートはアラベスクスタジアムから帰途に就いた。自宅の廊下を迷いなく歩んでいた彼が訪れたのは、一階に設えられた温室だった。温室にはユウリが手ずから手入れしている草花があり、どれも美しく咲き誇っている。彼女の母親同様に、ユウリは昔から土いじりを趣味のひとつとしており、実家であるハロンタウンでも鉢植えやプランターで見事な花を咲かせていた。草タイプのポケモンに手伝ってもらえば一年中どの花も咲かせ続けることができるが、温室には今の季節の草花しか育っていない。時間を感じさせることが大事なのだ、と云っていた妻の言葉を思い返しながらビートが足を進めれば、お目当ての人物はすぐに発見できた。
彼女は花々に囲まれながら静かに眠っていた。傍らには枕代わりになっている大きな犬の姿をしたポケモンが寄り添っている。フェアリータイプが多く生息するこの町の住人にとっては見慣れぬポケモンだが、ビートはこのポケモンのことを良く知っていた。そのポケモンことウインディはまどろんでいたようだったが、温室の闖入者に気付くと途端に警戒したように低く唸り声を上げ、体毛を逆立てる。しかし相手がビートだと知るや否や、双眸に浮かべた明確な敵意をあっさりと拭い去り、挨拶するふうに小さく鳴き声を上げている。トレーナーたる彼女を守ろうと動くのは当然だが、このウインディは少しばかり過保護だった。
眠る妻の姿は、いつ見ても溜息が禁じえないほど愛らしかった。眸を閉じているためか淡い桃色の唇だけが色を落とし、肌の白さをいっそう際立たせている。その色は触れたら瞬く間に壊れてしまうのではないかといった彼女の儚さを助長させており、けして侵してはならぬ神聖さすらも感じ取れる気がした。
今でもユウリとの出会いはつい数時間前の出来事のように思い出すことができる。ビートにとってユウリとの出会いは衝撃的で、無機質な世界を鮮やかに彩っていった。彼女のポケモントレーナーとしての圧倒的な強さが原因でそう思ったのかもしれないと後々に考えたこともあったが、それだけでは片付けられようもないくらいの激しい感情と執着が既に芽生えていた。あの時、自分は『運命』を見たのだ。共に在るべきだと、在らなくてはならない存在なのだと彼女に対して本能的に思った。
それがけして間違っていなかったからこそ、今のビートがある。ポプラからアラベスクタウンのジムリーダーを引き継ぎ、頭角を現すにつれてますます遠巻きに褒めそやす周囲の人間とは違って、最初からユウリはずっとあるがままのビートの『個』を見ていた。『個』をしっかりと見据えたまま、ごく普通の一人の人間として接してくれていたことに、どれほど彼がふとした時にどうしようもなく懐いてしまう孤独感を埋めてくれたかなど、ユウリ本人は今でもあまり解っていないのだろう。
何かに誘われるまま彼女のなめらかな雪白の頬に指を這わせれば、長い睫毛がふるりと震えた。寝起きが悪い彼女にしては珍しく早く目覚めたらしい。暫時することなく柔らかな目蓋は押し上げられ、くりくりとした明るい鳶色の眸が顔を覗かせる。初めて出会ったあの時からビートを魅せ続けた眸だ。今でもそれに魅せられ、心を乱されるのは変わりない。
ユウリは目覚めたばかりで夢と現を彷徨っているようだ、どこか焦点があっていない。それでもビートの顔を見つければ、眦は微かに緩められた。表情の小さな所作でも、とても愛しく思える。心臓がきゅうと甘く握られるような感覚はくすぐったくも心地好かった。
「眠るなら部屋で寝なさいといつも云っているでしょう。風邪をひいたらどうするんだ」
「……作業をしていて、少しうとうとしていただけ。それにまだ暖かいから大丈夫」
咎めるような言葉を口にするビートだったが、声音は穏やかなままだ。指をすべらせていた頬に軽く口付ければ、一際甘い匂いが鼻腔をくすぐった。場にある花の香りに交じることのない慣れ親しんだ彼女の香気はいつだって心地好さを齎してくれる。その香りをもっと感じたくて悴首に唇を寄せれば、ユウリの肩はくすぐったそうに小さく揺れた。
「ビートくん、くすぐったいよ。ねえ、私に何か用があったんじゃないの?」
「ああ、リーグスタッフの方々がつい先ほど来ていたようです。先月のチャンピオン防衛戦時の記念品を置いていった、と伝言メッセージがありました」
「そうなの?なら、お礼状を送らないとね。ペリッパーに届けてもらおうかな。だからビートくん、そろそろ退いて」

自分の頼りない力では夫を押し退けることはどうやったって不可能だと解っていたが、ユウリはビートの胸板を軽く押す。存外に彼はすぐに退いてくれたが、美しい顔にはいかにも不満そうな彩が浮かばれている。礼状なんて後回しで良いだろうと薄紫の双眸は雄弁に物語っている。自分を優先させないと不機嫌になる子どもっぽいところは昔から何ひとつ変わらない。スタジアムでの莞爾とした微笑みをみせるエリート然とした態度とはかけ離れており、ユウリは思わず小さく微笑い声を零していた。

A Wizarding Afternoon Tea

かつてのジムリーダーであり、ビートを自身の跡継ぎとして更生・再起させた師匠と謂う立場のためか、何かとポプラは彼と会話したがっていた。ビートがアラベスクタウンのジムリーダーに就任して早三年目のことであるが、やはりその月日を経ても最低限に譲歩しただけで慇懃無礼な態度を崩さない。しかし人生の酸いも甘いも噛み締めて来たポプラにとって、彼の尊大な態度など可愛いものだ。
つまり最低限に譲歩していると思っているのは、ビート本人の意識下だけなのである。傍目からすれば彼がポプラにそれなりに気を許しているのは、週に一度は必ず行われるお茶の時間にしっかりと足を運んでいるのが指し示している。本当に心の底から嫌っている相手の誘いを気位の高い彼が受けるとは思えず、止せば良いのにキバナが良い家族関係じゃないかと茶化したものだから、彼はエキシビションマッチで酷い目に遭わされた(タイプ相性的な意味で)
お茶を共にしているのは茶菓子目当てのユウリが行きたいと云うからだ、などとビートはもごもごと言い訳めいた言葉を叫んでいたが、周囲の者はにやにや笑うだけで意に介さない。お陰で頗る機嫌を悪くするが、ユウリが行きたいというのなら是非もない。茶菓子目当てなのは理由に含まれているが、親から与えられる愛情を知らない彼が断片でもそれに近いものに触れる機会を少しでも多く作りたいと云うのが一番だ。こういった面に関してユウリはポプラの強い味方だった。
今回の茶菓子はレモンタルトで、勿論ポプラのお手製だ。口に運べばレモンの酸味や甘さは舌に丁度良く馴染み、夕食前だというのについついと食べ過ぎてしまいそうになる。美味しそうに頬張るユウリにポプラは相好を崩して、他にもある茶菓子を勧めていた。
そんなユウリの傍ら、早々に食べ終えたビートは室内を歩き回って膨大な数の書物を吟味していた。ここに陳列されているのは全てポプラの私物だ。入手が難しい稀覯本も数多く、ナックルシティの図書館にある棚にもないような書物が所狭しと並べられている。ねがいぼしに関する書物と一緒に並べられてあった、『子どもとの接し方』、『もしも貴方の孫が反抗期になったら?』などの育児書から視線を無理やり逸らし(燃やしてやろうか、とビートが心底思ったのは誰も知らない)、数冊の本を手に取った。
「ああ、やっぱりあんたはそれを手に取るんだねえ。訪れることのなかった未来なんだから、今もそうやって引き摺らなくても良いんじゃないか」
「何となく手に取っただけですよ。昔のような考えを持っているわけじゃないし、行おうと考えているわけじゃない。大体、本当に読まれたくないと思うのならとっくに貴女が隠しているでしょうに。しらじらしい言葉を」
「なに、優秀なあんたならあたしが隠したとしても上手く見つけてしまうだろう?」
飽くまでも学術的興味に留めておきなよ、と云ってポプラは紅茶のカップを傾ける。彼女のこういった言動を見る度に、ビートは少し微妙な顔をする。子どもの意思をしっかりと尊重した『親』のようなことを云うからだ。普段冷たくあしらっても、今の彼が心から敵に向けるような態度をポプラに取れるわけもなかった。
お茶の時間で話される内容は多種多様だが、ポケモントレーナーらしく主に試合などの話題が多い。ポプラからは、年齢を重ねる毎に連れて変わっていった二人の関係へと矛先を向けられることもある。
「この前の試合、観ましたよ。相変わらずフィールドを使うのが上手いですね。対戦相手はキバナさんでしたから、ちょっと冷や冷やしたところもあったけど」
「そうだね、高威力技をバンバン連発するんだからたまったものじゃないよ。ミストフィールドを展開してなければ、抑えるのにもっと苦労したと思う。それにしても観戦しに来てたんなら声掛けてくれれば良かったのに。って云うかビート君、ジムリーダーでしょ?ジムチャレンジの試合もあるだろうし、観戦する暇あるの?」
「ユウリ、そもそもこの子はあんたの試合がある時は挑戦を受けようとはしないのさ。ま、受けたとしても試合が気になって碌な試合はしないだろうね」
「ああ、成る程……」
しみじみといった様子で呟きながら、ユウリは躑躅が描かれているカップを傾けた。
「それで、仲が宜しいお二人はどこまで進んだい?」
「……ポプラさん、そのニヤニヤとした顔は止めてくれませんか。別に対して進展はないですよ」
「そうかい。なら、手を繋いだ程度の進展か」
「ば、馬鹿にしないでもらえます!?僕もユウリさんもそこまで子どもなんかじゃない!キスぐらい経験あります!」
ニヤニヤとした笑顔を湛えたポプラが意地悪く訊ねれば、すかさずビートは否定する。彼の放った言葉にポプラはより一層とニヤニヤ笑いを深め、短気なビートが癇癪を起こさぬ内にさらりとユウリが話題を切り替えるのが毎度毎度の遣り取りだ。
芳醇な紅茶と茶菓子を口にしたユウリは満足したのか、そのままポプラのポケモンであるトゲキッスを愛でに一度席を立った。トゲキッスは親愛をたっぷりと籠めて差し出されたユウリの指を甘く咬み、頭を撫でられるのを心地良さそうにしている。ビートは選んだ本を読み始めようとしていたのだが、何度無視してもポプラが話しかけてくるものだから面倒そうな顔を隠しもせず、それでも相手にしていた。『魔術師』たちとのお茶の時間はこうして流れてゆくのが常だった。

君がいなくなっても

一口目に感じたのは爽やかな酸味。二口目には舌に僅かな苦味が残った。それでも鼻腔を柔らかく擽るレモネードの香りは心地好く、彼女の感覚を曖昧にしていった。グラスに漂う氷はゆっくり表面積を液体へと変貌させており、氷に小さく反射する薄明かりは、まるで星のようだった。きらきらと溶け落ちていく小さな光を、彼女はただ見ている。
誰にも、何も言われたくはない。時が過ぎてゆくことを意識するかしないか。その曖昧な感覚に身を浸せれば、今は充分だった。もしも誰かに悲しいのかと問われれば、自分は困ったように笑いながら、どうだろうねと答えたかもしれない。
『彼』はあらゆる概念から己が存在を示すあらゆる痕跡もろとも自らを消し去り、勝利への緒を切り開いてくれた。自分に残されたものは何であったのか。必死に意味を探している自分の薄情さに、立香は密かに自嘲した。

『相変わらずだね、立香ちゃんは』

そうだよ。あなたが死んでも涙も流さない、相変わらずな奴だ。あなたが、あなたたちがいなくなっても、自分の明日のことを考えているような奴だ。

(けれど、あなたがもういないことが)

いなくなった相手に、立香は相変わらず真情を吐露することさえできない。最期に聞いた声音はあの時のまま、二度と優しく立香の耳に発せられることはない。そして彼女は『彼』がいなくても進んでいく。明日も、明後日も、彼女自身が世界から消え失せるまで生きていく。
立香は記憶の砂粒を『過去』と名付けた箱へそっとしまい込んだ。再び取り出す時がいつになるのかは、彼女にも分からない。

誰かの正義

「私、そんなにぐだぐだ悩む人間じゃないと思っていたんですよ」

今宵の不寝番の相方は沖田総司であった。かつて敵対関係にあったその人斬りは細い鉄柵に器用に腰掛け、夜空を仰ぎ息を吐いた。寒さを確認するような仕草でもあり、また溜息をついたようにも見える。白く烟った彼女の弱音が闇夜を照らす仄かな街灯に一瞬浮かび上がり、そして夢現から醒めたよう消えてゆくのを坂本龍馬は静かに見つめていた。
「結構キツいことがあっても、お酒を飲んだり仲間と喋ったり、近所の子どもたちと遊んで不貞寝して、起きたらすっぱり忘れてる。そういうふうに今までやってきました。試衛館の内弟子となることが決まって家を出された幼い頃でさえーー勿論酒は飲みませんでしたがーーそうやって気分を入れ換えれば、何でも楽しくやれるような気がしてました」
でも、と沖田はぽつりと呟くと僅かに顔を俯かせた。暫しの沈黙が辺りを支配する。襟巻きに口元を埋めた彼女は少し言葉の続きを躊躇ったように見えた。白い頬と色素が薄い白銀の髪から覗く耳を、肺腑を突き刺すような冷気が赤く染めている。数歩踏み出した龍馬は沖田が座る柵に立ったまま凭れ掛かった。先刻まで沖田は年相応に無邪気な笑顔を見せながら、マスターとじゃれ合うような会話を楽しんでいたばかりだ。陽気な彼女らしくない歪んだ顔を真正面から見据えるのは、龍馬にとって意外なほど堪えることだった。しかしどのような言葉を向けて良いのか分からない。
場の静寂を裂いたのは沖田であった。彼女はただ何もない足元へ視線を落としたまま、淡々と言葉を零す。
「いやあ、あれは寝覚めが悪い。近藤さんや永倉さんには申し訳ないですが、私は二度とああいう殺し合いは御免ですね。あれは、想像してたものよりよっぽど悲惨だった。脳髄に刻み付けるふうな紅色と噎せ返るような血の匂い。吹っ飛んで千切れて、辺りは血の海でした。ああ、普段の殺しは『上品』でマシな方なんだって心底思いましたとも。鎖帷子の内側で自分の荒い息がうるさくて、仲間の手前、無様なツラ見せないように必死で見栄張って……でも、足も手も震えが止まらなかった。屋内に踏み込んで戦闘が始まっても、ずっと震えながら刀を振り回して、ただ目の前に現れた敵を殺すことしか考えてなかった。敵がみんないなくなれば怖くないって、そう思ったんです」
沖田を始め四人の隊士が踏み込んだのは二十数名の尊攘派がひしめく、池田屋の屋内であった。その内、実に13人もの志士が当夜の戦闘によって討ち果たされたと云われている。更に新選組は諸藩兵とともに浪士狩りと称して市中の掃討戦を翌朝まで繰り広げていたことから、一連の戦闘の激しさが偲ばれる。
「人を殺した感慨なんて何もなかった。罪悪感を抱く暇もなかったですよ。ただ、ずっと怖かった。私を殺そうとする奴らがいるって考えるだけで、いてもたってもいられない。だから必死にどうすれば敵を殲滅できるか考えた。ええ、ご存知の通り、皆の奮戦の甲斐あって御所焼き討ちの計画を未然に防ぐことに成功しました。尊王派の奴らは大損害、新選組の名は天下に轟いた。さあこれからだと云う時に労咳、沖田総司は第一線からはおさらば、という訳です」
かつての天才剣士は細く長い息を吐き出した後、小さく口元を歪めた。
「死ぬのが当たり前なのだと、上洛前に土方さんは言いました。そんなこと私だって分かっています。近所のおじさんが帰ってこなかったり、親戚の誰それが死んだとか、そう云う話は子どもの頃から身近に溢れていたので。だから武士になったら『死』はもっと近いものだと云う覚悟もあった。だから土方さんの説教は『思い上がるな、お前もそのうちあっさり死んじまうぞ』、そう云う意味だと思っていました」
沖田が次に言わんとすることを龍馬は既に分かっていた。互いに若い全盛期の姿で召喚されているが、それでも龍馬が先んじて武士の階を登っていたのは確かだからだ。
祈るような気持ちで龍馬は瞼を閉じる。それは武士としては間違っていない道理なのだ。だから気に病むなと、彼は言う気になれなかった。その行為に罪悪感を抱かないような人物であれば、カルデアで龍馬は沖田と友人となることもなく、そもそもこうしてこの場に居ることもなかっただろう。
「でも、違う意味もあったんですね。考えてみれば当然なのに。尊王派の奴らが死ぬことも当然ある。例え自分が奴らを殺したとしても、それは当たり前のことなんだ、そう思えってことだったんですね。敵が死ぬのは当たり前なんだ」

『だって、私は死ぬのが怖かった』

言葉は最後まで紡がれることはない。再び暗鬱とした夜の大気に白い吐息が溶けてゆく。沖田はゆっくりと瞼を伏せ、一度だけふるふると首を横に振ったのが気配で伝わった。その顔に涙が伝ったのかは、彼女より先に目を閉じてしまった龍馬には分からない。立ち尽くしてすっかり冷えてしまった指先を、龍馬は手を突っ込んだポケットの中で握り締める。凍てつく風が吹く中でも、沖田の居る右側は温かく思えた。
例え沖田総司が他者を殺して生き残ったのだとしても、彼女と云う英霊が今この場に居ることは尊く、それだけは嘘偽りのないことだ。そしてそう考えることは、彼にとっては紛うことなき『正しさ』であった。

雷霆神の子守唄

「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな」
微かな美しい音色が鼓膜を擽るように震わせれば自ずとアルジュナ・オルタの足はそちらの方へ赴いていた。耳慣れぬ調子の詩だが、これは子守唄だろうか。ふわりと浮かびながら先に進む都度、彼が手招かれることになった歌声も更に聞こえてくる。アルジュナ・オルタの柔らかな美貌は自然と笑みを溢れさせ、玲瓏な音色にうっとりと目を細めた。
曲がり角を通り過ぎればマスターの私室だ。
近付くに連れ、歌声は鮮明になる。どうやら声の主はこの部屋で寛いでいるようだ。彼がひょいと顔を覗かせると、寝台に腰掛ける源頼光と膝枕をされて眠るマスターの姿があった。背後に立つ存在に気付いたのか、頼光は振り返ると淡い微笑みを浮かべて彼を出迎えた。
「珍しいですね。マスターが膝枕なんて」
真面目で律儀な性格からか、立香はこう云うものを遠慮するかと思ったのだ。
「はい。なので私が無理矢理寝かしつけました。少し具合が悪そうだったので」
確かに立香の顔色は血の気が失せて青白く、いつもより顔色が悪い。本人は何でもない顔をしていたが、最近は立て続けに微小特異点の修復を行なっていたので少々無理が祟ったのかもしれない。
立香を見ればまだぐっすりと眠っていた。頼光に膝枕されたまま、時折すぴすぴと小さな寝息を立てている。なめらかな頬に指を這わせ指先で軽く突くと、むず痒そうにもそりと身じろぎした。
「こら、悪戯は良くありませんよ」
僅かに柳眉を寄せた頼光に怒られて、アルジュナ・オルタはすみません、と苦笑しながら手を退いた。
しかし、頼光にも彼が何となく触れたくなる気持ちが分かっていた。眠る彼女の寝顔は年相応に稚く、いつ見ても飽きのこない愛くるしい寝顔だ。東洋人特有の稚さが湛えられた婉容な顔立ちは可憐で、夢を見ているのか桃色の唇に愛想の良い微笑を戯れさせており、それが一層と可憐さや稚さを引き立てる。
頼光にとって、契約者である藤丸立香は闇の中に現れた一筋の救いそのものだ。魔性である自分と契約し、認めてくれた運命のひと。己を使役するに相応の力を持っているとは決して云えないが、魔術の才に難があっても、どこか惚れ込むような力が彼女にはあるのだ。
穏やかに眠る姿を見ていると愛しいという感情が頼光の胸に深く垂れ込め、恐らくこれが母性本能と云った類のものだと思っている。昔であれば護らなければならないと心底思っていたのは坂田銀時や他の四天王たちだけだったが、今は同じくらいに彼女が愛しくて、護らなければならないと強く思う。この膝枕も自己満足にしか過ぎない行為かもしれないが、彼女が拒絶することがないのならば現界している限りこの行為を続けていこうと思っている。
「私の子、可愛いでしょう?」
「……ええ」
「でも、あげませんよ?」
「それは残念です」
冗談のような会話を続けながら、頼光は愛おしそうに立香の髪を撫でる。
「お嫁に行くにはまだ早いですもの。女の子は一緒に居られる時間が短いのだから、まだ母の側に居て欲しいのです」
司令部では次の異聞帯への進出が決定し、そのための準備に追われている。ノウム・カルデアは以前のフィニス・カルデアよりもその人員は遥かに少なく、そのために夜中遅くまで作業するものも少なくはない。マスターとも今では一日一回顔を合わすことができれば良い方で、同じ場所で生活しているのですれ違いの日々が続いていた。この上、嫁にでも取られたらますます立香との距離が離れてしまう。
「アルジュナ殿、実は私、この子が戦に行くのが嫌で仕方がないのです。以前マシュさんにマスターを連れて行かないでと頼んだことさえあります」
無論断られてしまいましたが、と頼光は苦笑を美しい顔に滲ませる。アルジュナ・オルタにはその光景が容易く想像できた。マシュのことだ、困惑しながらも申し訳なさそうな表情を湛えたに違いない。頼光を気遣うような言葉や眼差しを向けつつ、誰よりマスター自身が望んでいるのだと、戦場へと伴ったはずだ。
「ここをご覧になって下さい」
頼光は立香の手を取り、礼装の袖を捲り上げた。白皙の薄い肌を割るように醜い傷跡が走っている。鋭利な刃物で肉を抉るように刺されたのだと直ぐに解るような生々しい傷跡は目を伏せてしまいたくなるほどだ。傷は塞がっているものの、ほっそりと頼りなげな腕には余りにも不釣合いで痛ましいものだった。
「この前の戦で付けて来たのです。私は思わず怒ってしまいました。どうしてマスターなのにこれ程傷つくのか、サーヴァントの後ろで勝利のための策を張り巡らせるのがマスターの仕事でしょう、と」
頼光が述べたのは聖杯戦争の一般的なマスターの役割であるが、藤丸立香が人類最後のマスターである以上、当然そればかりではないことを頼光も理解している。だが戦いに赴くたび命を削り、帰るたび新しい傷を作ってくる娘に、彼女も気が気ではないのだ。次の戦いこそ物言わぬ躯になって戻って来るかもしれないと思うと、眠れぬ夜を過ごすことも少なくない。そんな頼光に立香は決して口答えをしない。ただ申し訳なさそうに俯き、謝罪の言葉を口にするのだ。
「本当はそのような話をしたいのではありません。もっと料理やお洒落のこと、気になる殿方の話などをしたいのに――駄目な母親ですね」
そう言って寂しげに微笑む彼女の顔は、深い慈悲を含んだ母の顔そのものだった。
「大丈夫ですよ。マスターは聡い子ですから、頼光殿の気持ちもちゃんと理解していますよ」
「……そうでしょうか?」
「ええ、神の子たる私が保証しましょう」
彼の言葉を耳にして頼光は満足そうに、または安堵したふうに眸を細める。長い睫毛に縁取られた双眸は普段と変わりないように思えて、とても温和な光が湛えられている。
彼らの声に反応を示すように立香が再びもぞりと身じろいだが、身体を丸め始めただけだった。猫のような仕種が可愛らしい。彼女を寝かしつけるように、頼光は髪を撫でながらゆったりと子守唄を口ずさむ。
「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな――」

◆◆◆

夢現の狭間で歌声を聞いた。柔らかな低さがあるそれは、いつまでも聞いていたくなるほどまでに美しい歌声だった。まるで柔らかな羽毛にくるまれているような心地好い気分になる。
「ん、らいこうさん……」
思考の覚醒しきらない鈍った頭でブランケットの端を掴み、寝返りを打つ。何だか……硬い。頼光の柔らかな膝とは異なる、引き締まった筋肉の感触を頭に感じる。暫くまどろみを湛えていたが、これが何なのかを理解すると思考は俄かに覚醒し、立香の顔は赤やら青やらに染まった。
「目が覚めましたか?」
反射的に身体を起こした拍子に、肩に掛けられていたブランケットが床に落ちた。はっきりと焦点が定まった先にアルジュナ・オルタの顔がある。うっかりと視線がかち合ってしまい、立香の顔はいつになく噴火したようにボンっと紅く染まった。彼はその様子を射干玉の眸を細めつつ、楽しそうに薄い唇に微笑を浮かべている。
「なっ、え、オルタ!?」
「頼光殿が夕飯の支度があると云うので、代わって頂きました」
「代わって頂きましたって……」
つまり自分は今までずっと無防備な寝顔をアルジュナ・オルタに晒していて、彼はずっと自分の寝顔を見詰めていたと云うことになる。眠りながら涎とか垂らしていないだろうか。手を口許に遣って確認してみたが、涎は垂れていないようで一安心する。
「リツカ、まだお顔の色が優れないのですからしっかり休まなくては」
半ば強引に引き倒されて、立香は是非もなくアルジュナ・オルタの云う通りにする他なかった。ブランケットを立香の肩に掛け、彼は立香の頭の上に掌を乗せる。唇に浮かべた微笑を更に深めて、仔猫でも撫でるような手付きで彼女の頭を撫で始めた。
「あ、あのさ、オルタ……?」
こんな状態で眠れるはずがない。思わずそれを零してみせればアルジュナ・オルタは至極不思議そうな様子で首を傾ぐ。しかし特にそれ以上何も思うことはないようだ。彼もそうだが、バーサーカーのサーヴァントと会話をしていると、時々会話が噛み合わなくなる時がある。今回もこれ以上同じようなことを話していても噛み合うことはなさそうだ。敢えて立香は口を噤むと、アルジュナ・オルタが再び言葉を紡いだ。
「リツカがよく眠れるように、子守唄を歌ってあげましょう」
再び穏やかな微笑を湛えた神の子は唇を開き、詩を紡ぐ。彼の声は耳触り好く、耳朶を優しく撫でるそれに、立香は思わず双眸をうっとりと細める。まるで父親のようだと感じると同時に、彼の父親としてのかつての一端を垣間見たような気がした。
眠りを促すように頭を撫でられ、立香は眸を閉じる。彼女の意識は心地良い熱に懐かれたまま、眠りへと落ちていった。

眠りにつくまでの

眠る前にいつも思うことがある。色濃い闇に満たされた室内の無機質な天井を眺めながらーーこのまま瞼を閉じて眠りに就いたら、二度と目覚めないのではないか、と。

アルジュナ・オルタにとって、眠ると云う行為ですら随分と久しく感じられた。それだけ『自分』は何万年も一人で破壊と創世を繰り返していたのだろう。ノウム・カルデアにて一人の英霊として召喚され、再臨を繰り返すにつれて、欠けたものを補いながら自分を構築され始めているのは本能的に理解した。自分が神と呼べるものではなくなりつつあるのも理解していたが、別段と気にしなかった。寧ろヒトに近づきつつある変容は喜びの感情を齎している。
睡眠は生物の活動維持に必要であり、満たさなければならないことだ。睡眠は恐ろしいことではない。しかし、無疆たる闇夜に引き摺り込まれる感覚に漠然と不安が溢れ出てくる。思考はまどろみ始めているが、このまま眠って良いのだろうかと思う。
もし目覚めることがなかったら、自分を取り巻く者たちは朝を迎えない己を囲んでどう思うだろう。彼女は、泣いてしまうだろうか。

「そんなの泣いちゃうよ、絶対」
発された声音はいつになく真剣で、冗談を一切含んでいない。茜色の双眸は寝台の上で膝を抱えているアルジュナ・オルタを見上げ、真っ直ぐに見つめていた。こんなふうに見詰められるとどうして良いのか解らない。だからこの話をしたくなかったのだ。情を揺るがす眼から逃げようと眼球を動かしてみるが、魅入られたように彼女の目から視線を逸らすことができなかった。
寝台の横に用意された簡易な椅子に腰を落ち着かせている彼女は、尚も一切の曇りなく、子どものようにアルジュナ・オルタを見つめている。悲哀を湛え、柳眉を寄せた表情を見て胸が痛んだ。
「マスター、これは例え話です。このような荒唐無稽な話を誰だって考えるものです」
まだヒトと呼べる存在だった、それこそ気が遥か昔、遠くなるほど昔の幼い時分、眠っている間の自分の意識はどこへ行くのか不思議だった。目蓋を撫で付ける眩しい朝日に目をゆっくりと開けた時、目覚めるまでの出来事は覚えていない。夢を見ていたのかもしれない。夢を見ている間、自分はどこに存在しているのか不思議だったのだ。無論自分は何処へも行かず、ただ寝台の上で眠り呆けていただけなのだが。
やがて幼かったアルジュナの興味は眠りから永遠の眠りへと移っていった。死のかいなに抱き締められた時、人の意識はどこへ行くのだろう。司祭たちに云わせれば、肉体を失った霊魂は一度天界に上った後にその業の応報によって生まれ変わると云う。だがその輪廻転生の果てに、己を己として知覚できるのか。自分はいつまで自分で居られるのだろうか。
「気にしないで下さい。『神』の魂を身に宿した英霊であろうとも半分はヒトなのです。それを自覚した今、このような他愛のないことを時々思うのです」
答えはないのだから、時間を費やしたところで何の益もない。分かっているがそれでも考えてしまう。実に無意味で下らない話だ。そう淡々と喋りながら、アルジュナ・オルタはゆらゆらと尾を振って見せた。

「……『アルジュナ』、手を」
口を挟むことなくアルジュナ・オルタの言葉に耳を傾けていた立香が不意に言葉を零す。不思議そうな貌をしながらも彼が手を伸ばすと、立香がその手に自身の手を重ねた。自分の指に絡む柔らかな熱。指を絡めたまま掌を握り締め、言葉を落とす。
「私が、呼び戻す」
「……マスター?」
「もしあなたが目覚めなくても、私がきっと眠りの世界から呼び戻すから。力の限り、全力で引き上げてあげる」
だから、安心して眠って。そう云って、立香はアルジュナ・オルタと視線をしっかりと合わせるとゆったりと微笑む。とても温和な光が湛えられた彼女の柔らかな微笑みに、彼は少しばかり面食らった。
彼女は心の奥底にある一番柔らかく脆い部分に指先を伸ばして触れてくる。無遠慮に踏み込むとはわけが違い、反応をしっかりと見ながらゆっくりと撫でながら慈しむように触れてくるのだ。不安に気付いて欲しかったのかもしれない。精神がヒトに近づいた今、霊基に揺らぎが生じることもあるが、成る丈顔や言動に出さないように心掛けていた。恐らく無意識のうちに、自分は彼女にサインを出していただろう。
立香の熱が自分の低い体温を侵食し、同化してゆく温かさが心地好い。申し訳ないとは思ったものの、アルジュナ・オルタは半ば誘われるようにもう一方の手を伸ばしていた。いつも以上に愛しみを含み、何より気を遣わせたことへの謝罪を籠めて労わるような手つきで触れる。あんまりにも壊れ物でも触るかのような手つきに彼女は擽ったそうに微笑う。
「……リツカ」
滴らんばかりに甘い声でアルジュナ・オルタはマスターの名前を呼ぶ。竜種に似た尾を彼女の身体に絡ませ、構ってくれとせがむ稚児の如く軽く引きながら寝台の布団の中に引っ張り込んだ。
「えっ、なに、そんな唐突な……!」
「大丈夫、何も致しませんから。ただ一緒に眠りたいのです」
その言葉を耳にして立香は小さく安堵の息を内心零しながら、もそもそと動きつつ寝台に横になった。アルジュナ・オルタの隣に身を横たえ、そのまま彼に腕を伸ばして自分の胸に引き寄せる。兄弟か、我が子を慈しむにも似た柔らかな所作に彼は何も云わず、寧ろ心地良さそうに立香に擦り寄っていた。ゆったりと頭を撫でれば、感触が心地好いのか擽ったげに目を細める。そこに不快感はないようで、もっと撫でろ、とせがむ甘えたな猫のように彼女に擦り寄った。
「ふふっ、リツカは温かくて良いですね」
「それは『アルジュナ』もね」
じんわりと穏やかな熱が触れ合った箇所から互いに伝播する。眠りを促すように頭を撫でてくる立香の仕草に思考はまどろみ、アルジュナ・オルタはゆるゆると瞼を閉じた。柔らかな体温と規則正しい心臓の音に誘われるまま眠りに落ちてゆく。こんなふうに穏やかに眠れるのはいつ以来だろう。不安もなく、恐れもなく、誰かに守られて穏やかな心地でいられるのは。

「おやすみなさい。良い夢を」
眠りの向こうで彼女の声が微かに聞こえた。

それでも心配なんです

武芸に秀でた戦士、叡智溢れる賢者と云えども常勝となるものではない。どれほど多くの兵を持ち、地の利を得ても、相手がそれを凌駕すれば戦況は瞬く間に覆る。要するに勝負と云うのは、運に左右されるコインの裏表のようなものと云えるだろう。ただそれは確率論的に平等に出るものではなく、常に戦況と共に刻々と変動しているものなのだ。

「この戦い……勝利は確定、かな!」
自信満々のどや顔で出て行ったマスターが身体中に怪我を負って撤退してきた。これはそれほど稀有なことではなく、むしろ今までも起こり得た出来事である。棺桶に片足を突っ込みそうになる場面は多々あったが、こうして生きて帰って来たのだ。まあ良いではないかと本人は思っているのだが、どうやら目の前の人物はそうは思っていないらしい。
場には深閑とした静寂が宿っている。かの人物が喋り出すのを待っていたが、全く口を開こうとしない。普段から物事をはっきりと云う癖に、今はだんまりを決め込んでいる。藤丸立香が恐る恐る視線を上げると、アスクレピオスの酷く剣呑さを招いた眼差しが彼女に注がれていた。氷など生温いとばかりに冷え切っている。
「あの……アスクレピオス?」
「………」
「うん、反省してるよ?ちゃんと反省してる。ちょっと相手を見くびりすぎたっていうか……これからは『見くびりません、勝つまでは』を私の標語にするからさ」
「………」
「でもね、今回は仕方ない所もあったんだって。まさか毎ターンフィールドが変わって、しかも用意周到に特殊耐性まで付与してくるなんて。あれはきっとノッブの策に違いない。わあ、第六天魔王の貫禄が十分だよ!夏フェスサーヴァント流石だね!」
「………」
「だから私も気を引き締めて、次の戦いは絶対勝つ。勝ちます。勝ちます……から、怖いのでそろそろその顔、やめてイタダケマセンカ」
呆れと軽蔑を綯い交ぜにしたアスクレピオスの視線に、最早立香は耐えられなかった。この沈黙にもそろそろ限界だ。端麗な容貌に般若の面を被ったかのようなお怒りモードの彼はギャップも相俟って本当におっかない……もうやだマシュのおへやにかえりたい。

「お前は馬鹿か」
ずっと喋らなかったアスクレピオスが漸く口を開いた。仮にもマスターに向かっていきなり馬鹿とは何なのだと心底思ったが、反論するともっと怒られそうなのでここは黙って殊勝な顔を作ってみせる。
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だと呆れて物も言えないな。お前、それでも魔術師か。それでも人類最後のマスターを名乗っているつもりか」
膝の上に作った掌を握り締めた。反省してます、と下手に彼を刺激しないように言葉をしっかりと択んで紡ぐ。それでも彼は納得したようにも思えない。直ぐ目の前で立香の表情の微細な変化も見逃さないように、緑碧色の双眸が自分を見詰めている。
「前回も同じことを言ったのを覚えていないのか?お前の脳は何だ、おが屑でも詰まっているのか。大して魔術も使えない癖に不用意に前線になどしゃしゃり出て、はっきり言って迷惑だ。お前が負傷すると周りにどう云う影響が出るのか、そもそもお前は自覚が足り、」
「ああもう、分かってるってば!」
アスクレピオスの言葉は肯綮に中るものだった。始めこそ大人しく聞いておこうと思ったが、彼の言葉で思い直した。流石にそこまで酷い言葉を言われては気分が害される。声を荒らげてからしまったと思ったが、こうなっては後には引けない。アスクレピオスもまた説教を途中で遮られ、語調が鋭くなる。
「理解していないからこうなるのだろう!お前が怪我を負って撤退して、周りがどれだけ心配したか。マシュは全てのリソースをお前の救援に回すだとか戯けたことを言い出すし、冥界の女神は使い物にならなくなる。全く、僕がどれだけ、」
「だからその件は反省してるってば!戦いの失態は次の戦いで挽回する!それでいいでしょ?」
「良くない!お前、僕の話を聞いていたのか?なるほど、話を聞かない奴には何を云っても無駄だな」
「聞いてたってば!馬鹿馬鹿ひとのことを馬鹿にして!」
「事実だろうが!お前は賢い癖に頭が悪い!」
「迷惑掛けたのは謝るってば!」
「謝罪などいらん!」
「じゃあ何で怒ってるの?訳分かんない!」
もういい、と吐き捨てるように告げて、立香は苛立たしげに靴音を響かせながらアスクレピオスの部屋から飛び出した。仕返しとばかりに、丁度机の上に広げられていた分厚い医学書を人質とばかりに没収するのも忘れない。そんな子供染みた報復にアスクレピオスは忌まわしそうに奥歯を噛むものの、苛立ったところで彼女はとっくに部屋を後にしている。
アスクレピオスは只管何もない無愛想な壁を鋭く睨めていたが、やがて不機嫌面のままどかりと椅子に座り込んだ。繊細な装飾がされている椅子は小さな悲鳴を上げたが彼は気にも咎めない。暫く膨れ上がった苛立ちを持て余してから、深い溜息を零した。
どうしてこうなってしまうんだ。整った眉をぎゅっと寄せ、小さく呟く。

「……ったく、どうして自分も心配したって素直に言えないんだよ」
アスクレピオスの正面から第三者の声が聞こえ、気配や足音もなくいつの間にかいた存在に彼は少し吃驚した。視線を上げれば机の上にクマのぬいぐるみこと叔母の恋人の姿があった。アスクレピオスとマスターの遣り取りの一部始終を視界に収めていたオリオンは心底渋い顔をしつつ、思わず呆れた声を漏らしたのだ。
「……言ったつもりだ」
むっつりと不機嫌顔をぶら下げるアスクレピオスにどこが、と思わず口に出しそうになるが、彼の『馬鹿』に様々な意味が込められていることをオリオンは知っている。とりわけマスターに向ける『馬鹿』にどれだけの想いが込もっているか、恋多き狩人はおそらく本人よりも正しく理解しているだろう。
「素直に『心配で死にそうだった。戻ってくるまで気が気じゃなかったし、思わず救援に飛び出しそうになった』って言っちまえばいいんだよ。マスターの救出を巡って黒い方のジャンヌ・ダルクと殴り合いのケンカになったり、マシュと一緒に暴走しかけたりしたとか、それはそれは醜態を晒しまりましたって白状すりゃあいいんだよ」
「出来るかそんなこと!」
「だから誤解されるんだって」
オリオンの言葉に噛み付くように言葉を返したものの、アスクレピオスの機嫌は更に下がってゆくばかりだった。彼が素直さを覚えたらそれは彼ではないような気もしないでもないが、しかしマスターに対してもこんな態度を取り続けてしまうのはやはり難儀だ。
やれ、厄介な小僧だ。心底面倒臭そうな物言いでオリオンは小さく呟くと、薬棚の奥に隠れるのように並べられてあったひとつの薬瓶を引っ張り出し、アスクレピオスの前にずいっと差し出した。
「仮にも妙齢のお嬢さんの身体に傷跡なんて残っちゃならねえ。さっさと行って仲直りして来てくれや」
アスクレピオスは苦々しく複雑そうな表情でクマのぬいぐるみと薬瓶を見遣っていたが、僅かな逡巡の後に薬瓶を握りしめて部屋を出て行った。
微笑ましそうに笑いながら、恋多き狩人はやれやれと肩を竦めた。
「全く、何時になったら『素直に心配かけないでくれ』って言えるんだろな」

患い軟らかに

頻闇を従え、吐いた息を容易く凍て付かせる真冬に浮かんだ月のような人だ。凶事を感じさせるくらいに、ヒトではない生き物と本能的に悟れるぐらいの過ぎた美貌と共に感じたのは、そんな思考だった。傷みのない、長く伸びた銀糸の髪が冴え冴えと輝く月光を思わせ、冷やかに蒼褪めた肌がそう思わせたのかもしれない。

繊い指先が伸ばされた先には、美しく輝く月色の髪があった。おずおずと伸ばした癖にひとたび触れれば指先は大胆になる。仔猫のように髪にじゃれ付いて来るマスター・藤丸 立香に気付きながらも、アスクレピオスの視線は耽読している薬草学の書物へ向けられていた。そうすれば、暫時経つこともなくじゃれ付いてくる指先に少し力が籠められた。自分の意識を何とかそちらに向かせたいらしい。
「……作業は終わったのか、マスター。先ほどからペンが止まっているようだが」
「ん……まだ終わってない」
「ならさっさと片付けてしまえ。書類を溜め込んで後々面倒になるのはお前とて解っているだろう。……おい、髪をそんなに引っ張るな。抜けるだろう」
アスクレピオスはそう窘めながらも立香に目を向けることはしない。相変わらず本に視線を傾け、時々メモ帳にペンを走らせている。癖のない字体で流麗な文字が綴られてゆくペン先を見ながらも立香は少し気を損じたように柳眉を寄せる。窘められたばかりだというのに、まだ髪にじゃれ付いていた。銀髪を指に絡ませ、さらさらとした感触を楽しんでいる。
「アスピこそ作業は終わらせたの?悠長に本を読んでいるようにしか見えないけど」
「調合途中の薬のことを云っているのか?あれは後三日は寝かせて置かなければ完成しない薬だ。一日一回鍋を掻き混ぜるだけで終わる」
にべない様子で言葉を放つが、何かしらに熱中しているとこれがいつもの調子だ。感情が欠落しているのかと思わざるを得ないくらいに、彼は感情を表に出すことはしない。表情以外にも姿勢なども滅多に崩されることがない。常に背筋をぴんと伸ばし、油断せずに周囲を窺っているのもいつものことだ。患者が運び込まれてくればいつでも診察に入れるようにしており、それは傍目から気付かせないぐらいだった。ずっとそんな調子で疲れないの、と云ったこともあったが、最早彼の中では癖のひとつだったので特に疲れる云々の感慨はないらしい。
「そう云えばこの前、婦長とレイシフトして買い物に行ったんだってね」
「衛生用品や霊薬の材料に使えそうな薬草やらの補充だ。買い物と云っても僕は荷物持ちだがな」
「……その翌日にはアルテミスやアタランテとも出掛けたって聞いた」
「あの二人も生前から知っているからだ。あの月の女神は僕の叔母に当たるし、かの狩人はアルゴノーツとして共に航海をしていた者だ。メディアやヘラクレス、それにイアソンも同様だがな。それが一体何だという」
矢張り素っ気無い口調で言葉を返すアスクレピオスに益々立香の眉が寄せられる。黙りこくった彼女をちらと横目で見遣り、アスクレピオスは口を開く。妬いたのか、と。自分に感けることなく他の者と外出したことに対して、と。言外で孕んだものは事実で、思わず嫉妬に任せて立香はアスクレピオスの銀髪を思い切り引っ張って自分の方へ向かせる。向かせた途端に唇を彼の唇に押し当て、嫉妬任せのそれはいっそいじらしさすら感じるほど稚い。
「……眸ぐらい閉じたらどうだ」
唇を解放してアスクレピオスを見れば、彼は目を開けたままじっと自分の顔を見ていた。やっとこちらを見てくれたと思っても、今は喜ばしさよりも気恥ずかしさが勝る。心の全てを見通すような静寂を湛えた目に見据えられるが、それでも緑碧色の眸には灯火のような温かな輝きが宿っている。自分を見詰める眼差しは柔らかかった。
眼差しと共に、ほんの僅かだがアスクレピオスに表情が表される。凍て付いた氷のような美貌に甘さを招けばぞくりとするほど美しく艶やかだ。細長い指先が擽るように唇を撫で、ただそれだけで背筋に心地好い刺激が走る。頬に帯びていた熱が上昇するのが自分でも良く解った。
「キスの強請り方ぐらい憶えたらどうだ、リツカ?お前はいつも唐突だ」
「……アスピが私に構ってくれないからでしょう」
「ふむ、そんなに僕に構って欲しかったのか……なら、どんなふうに構って欲しい」
囁くような低い声が落とされる。下肢に甘く響く声は心臓に酷く悪い。早鐘を打っていた心臓は壊れそうなほど鳴り響いている。期待を含んだ眼差しでアスクレピオスを見上げたが、彼は唇に口付けをすることなく頬へとキスを落とすだけだった。アスクレピオスの温もりは途端に離れ、立香は呆気に取られたように彼を見上げるのが精一杯だ。そんなマスターを見た彼は仄かに微笑う。どんな期待をしていたんだ。意地悪そうなものを含んだ笑顔だ。
「……アスクレピオス!」
「それよりさっさと出掛ける準備をしろ。往診だ」
「は?」
「構ってやると云っているんだ。ギリシャ辺りにレイシフトするぞ。次の薬に使う予定の材料を幾らか切らしているからな、丁度良い。お前にも好きな物を買ってやろう。あそこは甘党が多いせいか、美味いケーキがある店が多い。折角だから食べに行くか」
「……物で釣れる年齢だと思ってるの」
「別にそう思ってはいないが、お前は甘い物が好きだろう?」
マイペースなアスクレピオスに苛立ちや妬心は毒気を抜かれたように萎んでいった。彼は既にフードを脱ぎ、大概好んで着ている白装束を着込んでおり、出掛ける支度は疾うにできている。行かないのか?と不思議そうに訊ねられ、慌ててソファから立香が立ち上がったのは云うまでもない。

log(アルジュナ・オルタ)

『あすのはなしをしよう』

「私はさ、オルタの役に立てたかな。あなたの『共にある人』になれたかな」
細めた橙色の眸に懐古の色を浮かべながら、立香が呟く。
「ちゃんとマシュやダ・ヴィンチちゃん、新所長に恩返しできたのかな」
「……何を言っているのですか、マスター。恩返しなんて、これからいくらでもすれば良いのです」
「でも、私」
「マスターの魔術師としての功績なんてまだまだです。魔力は平凡以下、身体能力の強化も礼装に頼る形でしかできない。魔術師を名乗るなんておこがましいくらいです。向こう見ずでお人好しで、何度酷い目に遭っても諦めずに足掻き続ける……あなたは善良で平凡な、一人の人間です」
形の良い唇から吐き出される言葉たちを藤丸立香は口を挟まず耳を傾けていた。そして言葉に詰まったかつての異聞帯の神を彼女は見上げ、少しだけ笑った。そうだね、と彼の評価を肯定するように頷いてみせる。
「もっと……ちゃんとアーチャーのアルジュナの云うこと、聞いておけば良かったなあ もう一人の自分の名前を出すとほんの少し射干玉の双眸が複雑そうに揺らいだ。
「マスター、真の私のことを気に掛けてくれるのは良いですが、私の云うことも聞いて……」
「オルタはさ、」
「……リツカ」
連ね立てられる言葉を遮り、アルジュナ・オルタはマスターの名前を呼ぶ。それと同時に視線を上げた立香が己の顔を見ないように、彼は覆い被さるように彼女の身体をぎゅうと抱き締めた。自分の胸に彼女の顔を押し当て、頭を抱えるようにきつく腕を回す。
「明日の話をしましょう。これからのことを話しましょう。何でもいいのですよ。エミヤやキャットの作るご飯の話でも、真なる私ののお小言のことでもいいのです……どうか、私の云うことを聞いてください。ねえ、リツカ」
ぽたり、ぽたりと温かな雫が立香の頭上を濡らした。お願いですから、といっそ哀願に近い涙で濡れた声が彼女の耳朶を震わせる。
長い間傍にいたのに、彼の泣くところを初めて見た気がする。泣くと顔が子供のようになってしまうので、だから私は泣かないのです。気恥ずかしそうに、はにかんだような微笑を見せた彼の姿をふと思い出す。ヒトとして持ち合わせるべき大事なものの殆どを落剥させ、何百年も世界を輪廻させていた滅びの機構。今、その眸に宿る感情の起伏の豊かさを愛おしく思う。
腕の呪縛を解くように立香はゆっくりと顔を上げると、双眸に涙を滲ませたアルジュナ・オルタと対峙した。置き去りにされた子どものように心細そうな眼で自分を見た彼の頬に指を滑らせる。
夕陽を受けて煌めく涙が美しくて、自然に身体が動いていた。顔を寄せて、目許にそっと唇を寄せる。唇に受けた雫がじんわりと身体を侵食し、同化してゆく感覚。まるで体内を巡ったように、立香の眸から涙が自然と零れてゆく。
泣き笑いのような顔を作りながら、そうだねと頷いた。
「明日の話をしようか」